深雪の音色






雪のはらはらと舞う、静かな夜。
身を細く尖らせた針葉樹林だけが、闇夜にそびえていた。
寒さに凍える身体を、月は青白い光を降り注ぎ見下ろしている。
黒い影を落とす、数え切れないほどの木々。
銀色の大地に、足跡を残していく二つの影は、ずっと僕らを追い続けている。
くっきりと形取られた足跡の上を、新雪がふわふわと降り積もり、いつしか僕らの存在をその白銀の世界に同化させてゆく。
冷たい身体に絡まるような風と闇は、その時の僕にとっては心地良くて、安らぐものだった。
掌の中の小さな指先から伝わる温もりが、微かに震えている。
白い吐息が空へと舞い上がるたびに、僕は今のこの時の生を実感していた。


「恐いくらいね」
「コワい?」
微かに握り締めた掌の温もりは、指先の隙間から逃げてゆく。
「えぇ。だって、真っ白だと、夜はただ真っ暗でしょう?」
「あぁ。それで…」
二人は自然と顔を上げて、幕のように黒いビロードの空を見つめた。
音もなく肩に降り落ちる雪が、服に降り立った瞬間に見える結晶の美しさ。


「こんなに静かな夜には、雪女でも出そうだな」
「私かもしれないわよ?」
「だったらいいね」
「悪い雪女だったらどうするの?」
「悪い雪女?」
「えぇ。この銀色の世界に、あなたを閉じ込めようとするの。
あの優しい雪女は男を殺さずに帰してくれたけれど、悪い雪女は嫉妬深いのよ。
だからあなたを帰してくれないかもしれない」
「クスクス…それも悪くないね。こんなに静かな雪の夜に、美しい雪女に魅了されるなら」



そんな他愛のないことを話しながら、僕らは大きな一本の木の前に立った。
青白くさえ感じられる雪の白に身を包んだ大木が、静寂の中にありながら、まるで歌うように感じられた。
自然はさまざまな音を持っていると、どこかで聞いたことがあった。
この世には「無音」というものが存在しなくて、世界が…そう、僕が足を預けるこの大地が生まれた瞬間から、
歯車の動く小さなうごめきの音が奏でられ続けているのだと。
耳を澄ませば、耳をつんざくほどの音が本当は溢れていて、人間はその音に気付かないように生活しているのではないか。
と、ぼんやりその時の僕は思った。
だからふとした瞬間、静寂の中に身をやると無性に恐ろしくて、無性に感動もするのだ。
壮大な自然が奏でる生命の音楽が、何も気付かずにいたこの身体を突き抜ける。
その無言の衝撃は恐ろしくも、愛しくもあるのだろうと。



「でも不思議…」
「…、何が?」
「だって、必ず春は来るでしょ?こんなにも雪深い大地にも、春は来るのよ」
「あぁ。来るね、必ず。必ず君の好きな春が来るね」
「どうしてかしらね?」


「どうしてかしらね?」と、小首を傾げて微笑った彼女のその言葉が、いやに僕を悩ませた。
それは自然だからさ。と呟きかけて、僕はその“自然”というものが何であるのか、
心の中に自問したが、答えが出せなかった。
彼女の極当たり前のような問いは、実はとても難しい問いかけなのかもしれないと思う。
必ず春が来、夏が過ぎ、秋を追い、長い冬が鎮座する…。
その季節の巡りの中で、春に芽吹く花々、夏に生命を謳歌する動物たち。
暮れゆく秋の黄昏に沈む夕陽、そしてその全てを白く凍りつかせる冬は壮大過ぎて、
やはり人間の目にはとてもざっくばらんに、区切られた4つの自然でしかなかったけれど、
僕にはそんな風に単純に思えなかった。



「どうしてだろうね…」
答えを求めるように、僕は大木を見上げ樹皮に触れた。
ごつごつとした岩肌のような茶色の樹皮には、シャリシャリとした雪とも氷とも言えない結晶が積もっている。
指でその結晶を掬い上げると、そこには春を待つ木の言葉が溢れているように思えた。


「堅い…。きっと春までこうして身を堅くしながら待ってるのね」
「待ってる?」
「そうよ?春まで待ってるのよ」
「そうか…待ってるのか」
「可笑しな人。当たり前じゃない」

クスクスと楽しそうに笑いながら、木々に降り積もる雪を指でなぞると、彼女はまた空を見上げた。
少しもそんな風に思ったことがなかった。
木々たちは、春を待っているのだろうか。当たり前のことのようで、それは実は人間だけが決め付けたことなのかもしれない。
もちろんそうであってもいい。
季節は等しく回り、僕の生をいくらか成長させ、またいくつもの自然が巡ってゆくのだろう。
けれど、僕にはそう思うことの方が不思議なことに思えた。


「ねぇ、知ってるかい?」
樹皮の生命を掌の感じつつ、僕はずっと耳の奥まで澄ませるような気分で、彼女に語りかけた。
先ほどと同じように小首を傾げて次の言葉を待つ姿が、雪と闇の中でシルエットになり美しかった。


「氷には色があるってこと?」
「色?」
「そう。氷は何色をしてる?」
「透明じゃないの?」
「うん。そうだね、いつも透明だね」
「氷に色なんてあるの?」
「あるさ。氷はガラスとは違って、結晶の集合だから、本当は色があるんだ」
「結晶の集合?」
「そう。まあ、雪の結晶を集めて固めたみたいだなって思ってもいいよ」
「ステキな発想」
「発想じゃない。それが本当なんだよ。だからね、いつもいつも同じ結晶の集まりってはずはないだろう?」
「えぇ。じゃぁどうなるの?」
「うん、だから微妙に色が変化する」
「氷は何色をしてるの?」
「何色だ、って一色じゃなく、虹色のように見えるんだ」
「虹色?」
「そうだな?シャボン玉の表面みたいなものさ」
「まぁ、綺麗なのね」
「あぁ、僕らがいつも見ている氷の姿より、ずっと綺麗さ」
「それぞれが生きているのね」
「そうだね、それぞれが僕たちのように、個々に存在しているんだよ」
「雪も、氷も?」
「そう。この世にあるものはみんな。当たり前に思えることは、実はそうじゃないこともある。
氷の色のように、普段見ることの叶わないこともたくさんね」
「そう。だったら、私たちは何を見てるのかしら?」
「分からない。だけど、僕たちが見ている世界もまた、真実の世界でもあるんだよ」

“あなたは…”と言いかけて、ただ微笑んだ彼女の想いは良く分からない。
微笑みの美しさはさっきまでと同じで、また空を見上げた仕草も同じだった。
違うのは、ほんの僅か離れてしまった間に出来た温もりの空白と、雪が止んだことだけだった。

「私、春が好きでしょう?花は開花して、陽の光が強く、けれど柔らかに降り注いで…。
世界が急に明るくなったような気がするの。」
「うん」
「だけどそう思えるのは、長い冬があってからだと分かるの。まるで、光と影のコントラストを長い時間をかけて見ているよう。
そうね、一年という壮大な絵画を見ているような気分だわ」
「そうか…君には絵に見えるのか」
僕は深く笑み、彼女の手をまた温めるように握り締めた。
「僕には、この自然の営みが音のように思える。君には絵に見えるように。
本当はそのどちらでもあるのだろうし、どちらでもないのかもしれない」
「どちらでもない?」
「そう。花は自分が何色をしてるのか、そんなことは知らないんだから」
「そうね。でも、きっと分かるのよ。色や音なんかじゃないところで」



彼女がそう言った言葉が、一番僕の心の中に落ち着き、しっくりとくるものだった。
きっとそうなのだろう。
僕らのように、色や音ではなく世界は動いているのだろうと思う。



「雪、止んだね」
「雪女も帰ったんだわ」
「そうか、それは困るね?追いかけなきゃ」
「大丈夫よ。私はここにいるわ」
「うん。大丈夫。しっかり手、握ってるから」
「そう?逃げ出しちゃうかもしれないわ」
「出来るものならね?」

片目を閉じて、茶目っ気たっぷりに微笑んだ彼女の姿を眩しく思いながら、僕は止んだ雪に想いを馳せた。
いつか大きな記憶の旅をする時、僕はきっと必ずこの雪をまた辿るだろう。
そうして触れた樹皮の感触と、雪の白さと彼女の言葉を思い出し、深く瞳を閉じるだろう。

「ねぇ、春が来たらどんな音がするでしょうね?」
「春の音か。いいね、じゃぁしっかり耳を澄ませてようか」
「大丈夫よ、あなたにはきっと聴こえるわ」
「そうかな?」
「えぇ。冬が去ってゆく足音も聴こえてくるかもしれないわ…」
そう言った彼女の横顔は少し儚く、遠くを見ているような気がした。
「冬は去るんじゃないよ。春と同じ、またやってくる」
「そうね。私も毎日違う絵を見続けているんだわ」



「あ、また雪が…」



また降り始めた雪が、僕らの足跡を消してゆこうとする。
握り締めていた掌には、この大木の前に来た時と同じ温もりが戻ってきていた。
空はまだ濃いビロードを広げたままで、星も月も、太陽も輝いてはいない。
この世界に僕たち二人だけではないかと、錯覚を覚えるほどの静寂と沈黙は、
肌を刺す風の痛みのように微かで、けれど確かに感じるものだった。


「そろそろ帰ろうか」
「えぇ」


新雪が消していった足跡の上を、僕らはまた新しい足跡を残して去ってゆく。
吹雪き始めた雪がまた、さっきまでと同じように音もなく降り、僕らの存在をその世界から消して、
完全な音と絵の調和を施すのだろう。





「春か…」



風に乗って舞う雪から、春がやってくる音が聴こえた気がした。










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