「アヴェ・マリア〜不規則なオルゴールの調べ〜」





美しい海が広がっていた。
碧のきらめきが、より一層悲しそうに波立っていた。

真新しい帽子が、ふわふわと飛んでいってしまいそうだったから、つばを押さえた。
燦々と降り注ぐ太陽が眩しくて、空を見上げることはしなかった。
海が反射するキラメキだけで、私の視界は十分に満たされていた。
私を待っていた海は、それでもやはりいつもと変わりなく、不動の大地だった。
真新しい靴に、白い砂がかぶっていた。くすんでしまったエナメルが、無性に切なかった。


真っ白なパラソルをかざして、風が悪戯に髪を乱し、帽子を奪おうと懸命になる。
必死になることに何の意味もない。と気付いた瞬間に、私は帽子を風にプレゼントして、
パラソルは海が欲しいと言ったから、そのままあげてしまった。
海は嬉しそうにパラソルを呑み込んで、ゆらゆらと沖の方へと運んでゆく。
風は空高く帽子を舞い上げ、どこまでも自由に風に遊ばせていた。
そんな彼らが愛しく思えた。


「そんなに欲しかったのかしら。」

ふふ…と微笑って、乱雑に掻き乱された髪をかき上げた。
急な海からの強い風に圧されて、身をかがめた。
「あぁ、いいのよ。それぐらい。」
風と海がお礼を言ったらしかった。
波も風も飽くことなく戯れ、美しい円舞(ロンド)を踊っているようだった。




雲は風に送られ、私は季節に流されていた。
寂寥を抱えながら、私は何故海に来たのだろうか。
空虚を抱えながら、私は何故海に来たのだろうか。




マリア様、私は夜が来て汽車に乗り、この海にやってきました。
私は、この海のほかに何処にゆくというのでしょうか。
あるいは、何処にゆけというのでしょうか。



私のハンカチは真新しく、まだ一滴の涙も拭ってはいない。
涙は零れた瞬間に過去のものへと成り変り、決して今を生きた証ではなかった。
だから零れた涙は、拭えなかった。
悲しみに濡れた白い布には、何が丸められてしまうのだろうか。
神はそれを知っても、何も呟くことはしない。











少女は神を信じなかった。
栄光の光など求めなどしなかった。
光がもたらすのは、闇の輪郭であり、けっして美しいものばかりではないということを、
少女はどこか精神の奥底で感じ取っていた。


少女はたった一つだけ、掌に残ったオルゴールを見つめ、砂浜に腰を下ろし、ゆっくりと螺旋(ねじ)を回し始めた。
切なく、官能的なメロディーが流れた。
少女は神に何を想ったのだろうか。どんな夢を追いかけたのだろうか。
その想いは、海も風も、偉大なる空も愛も、何者にも解することは出来なかった。
どんなに美しい言葉であろうと、どんなに美しいメロディーであろうとも、
少女の心を溶かすものにはならなかった。

そう、決して神でさえも…。



視界の向こうで、まだパラソルがゆらゆらと流れていた。
波はたおやかで美しかった。
空は雲を張り、少し陰り始めた。遠くの方で黒い雲が広がっている。
悲しい音色は時折止まりながら、不規則に奏でられていた。














「ねぇ知ってる?」
私は海に話しかけた。けれど、海は何も応えない。
「時々…神様は、恐ろしいのよ。この曲は、カストラートに捧げられた曲なの。悲しい(うた)ね…。」
海は小さな波を立てて、空の黒さに同調するように、美しい碧をだんだんと色濃く蒼に染めていた。
「神は歴史を揺さ振りながら、けれど決してその手を差し伸べようとはしない。
神のために失われたカストラートには、どんな生の意味があったのだろうか。
どんな美しさがあったのだろうか。
そんなことばかりを思っていると、神ほど恐ろしいものなどないのよ。
神の栄光のためにと、幾人ものカストラートが、悲しい曲を作って奏でた…。きっとこのマリア様も同じ。」



海は静かに、けれど激しくその脅威を現した。
ザブンと大きな波が一つ立つと、初めの波に励まされるようにして、何度もうねりを作り、海岸を攻め込んだ。
パラソルは何時の間にか、海水に呑み込まれていた。
風はその脅威に驚き、帽子を海に落としていた。
海は顔色を変え、その帽子さえも呑み込んでしまった。

「そう…。だから欲しかったのね…。」

私はそう呟いた。
私は刻一刻と変化してゆく海を見つめながら、その自然の美しさを眺めていた。
私はまた静かにオルゴールの螺旋(ねじ)を巻いた。
悲しくとも、切なくとも、官能的とも言われるアヴェ・マリアが、ゆっくりと流れた。
潮風に晒された瞳が、乾きに一粒の滴を零した。
透明で、儚い、たった一粒の滴だった。










少女は泣いていた。
悲しみに泣いていたのか、あるいは、その雄大な海という脅威の中に、
身を賭すことの出来ない現実が少女を哀しませていたのか。
哀れむものなどなく、慰めるものもない。
少女はたった独りで海にいた。
少女を貫こうとする陽を遮るパラソルは海が、少女に影を作った帽子は風が、奪い去ってしまった。
唯一奪うことを許されなかったオルゴールは、少女に悲しみだけを残して、
瞳を閉じることさえも許さなかった。




少女は叫んでいた。
信じることなど厭わしい神に。
侮辱の限りを尽くして、それでもまだ足りなかった…。
真実(ほんとう)はそんなことなどしたくもなかったのだと、心が悲鳴をあげながら……。

少女は間違いなく、ある日神を見ていた。
だから彼女は、もう神を信じない。
あの神々しい神以外に、もう二つとないあの日見た神以外に、無いと信じていたから。
少女はその日から神を信じることを止めた。
少女にとっての神が、その存在を消したその瞬間から、決して神の名を呼ぶことをしなくなった。
それが少女にとって、どれだけ苦しいことなのかを、知るものなど誰もいなかった。
誰もそれを理解しようとはしなかった。
その苦しみさえも、少女を美しく彩ることが、あまりにも純粋過ぎた。












「私はね、一度だけ神を見たの。素敵でしょ?あなた、神を見たことがある?」
遠くの地平線を見つめ、まっすぐ空を見上げていた。


青黒く色を染めた空は、それでも泣き出すほどではなかった。
「疑ってないの。あれは神様だってね。あなたには分からなくてもいいの。」
彼女は振り返ることもせず、ただ海を見つめながら呟いた。











少女は孤独だった。
少女は、孤独であることの意味を知っていた。
だから少女は知りながらも、後を追う者の足音に耳を塞いでいた。
閑散とした部屋の中で、少女の温度を確かめるように佇んだ男は、
抜け殻になった空気を吸い込んだ。
何も告げずに去ろうとする少女に、どんな言葉をかけることが出来るだろう。
そうすることが、少女の中にある美しさであるとしたら、何を慰めることが出来ただろうか。
だけど、それも少女の涙の前には何も意味を持たない理屈だった。
大自然が奪っていったパラソルも、帽子も掬いあげることはもう不可能だったが、男にはまだ出来ることがあった。












「僕はまだ…見たことがないんだ。」
「そう。それは残念ね…。」
ほんの少しこちらを振り返り、伏し目がちに儚く微笑った。
「もう見ることは出来ないの?」
「さぁ。あなたの神様なら、まだ見れるのじゃないかしら?」
「僕の?」
「そう。あなたの。」
「君の、」
「私の神様はもう見れないわ。もういないから。だから決してほかの神様は信じないの。」
「それが僕の神でも?」
「そう。だけど、いいのよ。いたって、いなくたって。見たものは見た。それだけで…。」


ふんわりと笑った横顔に、浮んだ形容し難い哀しみの色は、目の前に広がる海よりも美しいというのに、
どこまでも冷たくて、触れることが恐ろしかった。

氷を溶かす熱き想いでさえも、彼女の心の壁を打ち砕くものはなかった。
だけど、だけど…僕にはそんな彼女であることが愛しかった。
救えるものなど何もなく、癒せるものなど一つもない想いを抱く彼女が、愛しかった。
そんな彼女のために、僕は泣くことぐらいは出来たから。
そうして、切なく微笑する彼女の、海よりも美しい粒を、真っ白な布で拭うことは出来るから。






僕のハンカチは真新しい。
私のハンカチは真新しい。
だけど、私の涙は古い。
だけど、彼女の涙は美しい。






―――――もう一度会う日はないか。
―――――もう一度出会う日はないだろうか。






冷たい冷たい、凍ったように冷たい彼女の身体が、悲しみで軋む前に、僕は彼女を抱き締めた。
僕は未だかつて見たこともない神に、彼女の美しい悲しみが溶け出せるように、
もう一度彼女が愛しい神を見ることがあるようにと、力強く祈った。
抱き締めた彼女の掌から流れるアヴェ・マリアが、二人の切なさを包んだ。



空を凌駕した雲が黒く染まり、優しい雨をもたらした。
彼女の涙も、もう誰も咎めないだろう。
冷たい冷たい氷の心が、早くこの腕の中で溶け出せるようにと、僕は決して力を緩めなかった。
雨は、僕の鼓動さえも鎮めていくような、優しい優しい鎮魂歌(レクイエム)だった。






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