Special Present♪
happy birthday dear 忠さん

氷雨雪(ヒサメユキ)〜君の足音〜」 華奢な月が僕を見下ろしていた。 淡く儚い燐光を放つ月が、黒い雲に隠され、暴かれながら…。 窓辺に置かれた一輪挿しは、その器も花も、儚く華奢な桃色の花だった。 僕は取りとめもない想いを抱えながら、その窓辺から月の光に満たされていた。 あの日も、こんな淋しい月夜だった。 窓から差し出した手に届く、その光の淡さが悲しくて仕方がなかった。 「こんにちは。御挨拶にと思って。」 “お久しぶりね”と厳かな扉を開けたのは、愛しさを胸に秘めたまま、別れを告げた(ひと)だった。 何度も、口から身体から溢れそうな愛を、押し留めたことだろう。 そんな瑞々しく、若く滾る想いも、時間の経過と切なさで洗い流されていった。 色褪せるだけでなく、色が剥げてなくなってしまった時間さえもある。 遠い昔の、冷たい風が吹く頃、僕たちは二人で並木を歩いた。 氷雨か、綿雪の降るような冷たい日だった。 僕たちは、手を繋ぐくらいには親しくて、けれど愛を囁くまでには遠かった。 握り締めた手の中で、悲しみともどかしさが交差しながら、捻り潰されていた。 「聞いたよ。」 「そう。」 「行くんだって?」 「えぇ。」 「それでいいのか?」 「えぇ。構わないわ。」 「構わない」と答えた彼女の響きからは、貴方にそこまで干渉される必要はない。という含みさえ感じた。 あの冷たい拒絶は、僕の心に亀裂を走らせたが、彼女を憎むほどにはならなかった。 あの時、手を握り締めながら、「行くな!」とだけ言える時間は、十二分にあったのだから…。 それをさせなかった僕の心は、きっと間違いではなかったのだ。 二人にとって、それが最良だったとは言えないだろうが、それでもあの時はあれが答えだった。 僕以上の愛だったのか…不確かな中で睦言を告げた相手の男が恨めしかった。 それでも僕は、羨ましさも感じていた。 何も云えずにいる愛が、果たして愛と呼べるのだろうかと…。 彼女が何時か壊れていってしまうのではないかと、密かに不安に駆られていたのだと言い訳をしながら。 もう一度「いいのか」と聞けなかった僕に、何が云えたというのだろう…。 現実に逆らわず、奪うことを恐れた僕に、一体何が出来たというのだろう…。 「急だね。驚いた、君から来るなんて。」 「えぇ。近くまで来たから、御挨拶に寄ったのよ。お変わりは?」 「お陰様でないよ。」 「そう?随分ここも変わった気がするけれど…。」 「そんなことはないさ。人がいなくなったからだろう。」 「それもあるけれど…」 殺伐した部屋を見回しながら、彼女は少し訝しげに眉をひそめた。 (それは君がいなくなったからだ)そう呟く内心を知られた気がして、僕は視線を外した。 あの日別れた彼女と、どことなく雰囲気が違って見えた。 重みのある凛としたところは変わっていないが、儚さを纏うようになった…と、その時僕は茫然と思った。 「とにかく、玄関では何だから…。」 「じゃぁ、ほんの少しお邪魔するわ。」 律儀に揃えた靴の真新しさが、だだっ広い屋敷には似つかわしかった。 彼女の趣味よりも、少し気取った感じの美しい赤いハイヒールだった。 その違和感は、どこか眩しくて、けれど僕の内の何処かが苦しかった。 二人で歩いた並木を、コツコツと音を立てて付いてきたヒールの音が、 淡く甘い想いを呼び起こすようで、見慣れないハイヒールに眩暈を覚えた。 「悪いね。無駄に広い家に、男独りだと何も出来なくて。」 そう言い訳をしながら、淹れたこともないインスタントコーヒーを差し出した。 「いいわよ。分かっているもの。」 「……。元気だったのか?」 「えぇ。」 「そうか。変わりなく?」 「えぇ。」 あの日のように、「えぇ」としか答えない彼女が、無性に腹立たしかった。 人並みに淡い恋心を抱きながら、それでも秘めた想いを告げることなく枯れた日々と、 今も何一つ変わらないような気がしてならなかった。 けれど、僕が腹を立てる資格がないことも十分に分かりきっていた。 香りばかりで、味のしないコーヒーを喉の奥に流し込んで、僕は言葉を探していた。 「いい眺めだね。意味ありげでさ。」 「???」 「あれだよ。」 と、僕は指差した。 部屋をまたいだ向こうに見える、あの赤いハイヒール。 「あれが何か?」 「似つかわしくなくて、ワケありそうだろう?冴えない男の部屋の玄関に、新しい赤のハイヒール。 何だか意味ありげで、眩しいよ。」 あぁ、眩しいよ。と、独り言のように呟いて、僕の瞳は遠い日を追いかけていた。 本当に眩しかった日々を…。 もう戻れない過去を…。 「ご主人はどうした?」 「今日は出かけています。」 「そう。ここへは?」 「急だったので…」 「……。」 僕はその後に、何を言い募ろうとしたのだろうか。 主人が知ることのない所用。 それが此処にいるということに、小さな喜びを感じていても、 それを心から喜べないでいる自分がいることに気付いていた。 それは良心からの不安ではなかったように思う。 そんな逡巡さえ知らない彼女は、ふとそらした窓の外を見つめて、 「あっ雪…。」 「どうりで寒いわけだ。灯でも焚こうか。」 「…。外に出ませんか?あの日のように、雪の中を。」 彼女が「あの日」と言った日が、僕の思う「あの日」なのかは定かではなかったが、ただ…心地好かった。 「あの日」という懐古する想い出が、二人の中で共有されているような気がして。 あるいは、それを知らない主人に対する優越感だったのかもしれない。 その想いを悟られたくなくて、僕は偽りの言を述べる。 「風邪をひくよ。」 「大丈夫ですよ。少しぐらいなら。お嫌ですか…?」 女は狡い、と思うのはこんな時だ。 切なげに伏せた瞳から、何時涙が零れ落ちるかも分からない。 その美しさと悲しさを思うと、否定など出来るはずもないのだから…。 「じゃぁ、少しだけ。」 そう言った僕の口元は、綻んでいたのかもしれない。 だから、彼女は微笑み返してくれたのかもしれない。 あんなに美しく、綺麗に微笑う(ひと)だったろうか。 久々に感じる胸の高鳴りを、静める方法が分からず、僕は不器用に笑っていた。 激しい動悸と、一瞬の沈黙の後に、僕は傘を片手に、もう片方には彼女のコートを手に玄関へと促した。 外は白い雪がちらちらと舞い降りて、僕に錯覚を与えた。 まるで、あの別れの日のようだと。それでも、あの時のように苦しくはなかった。 彼女にコートをかけて、傘をさしながら僕たちは歩き始めた。 「覚えていますか?こんな氷雨のような日に、貴方と歩いた並木を。」 「あぁ。君は何一つ教えてはくれなかった。去り行くのだなんて…」 「えぇ。一言も。」 「残酷な(ひと)だったよ。だけど、愛していた。」 「えぇ。今、時が許すのなら、と思うことがあります。けれど…。」 「言ってはくれないのだね。そういうところが君だけれど…。」 「・・・・・」 僕は知らずの内に彼女を責めていた。 言葉を無くした彼女を可哀想にも思いながら、一方で愛しかった。 「いいんだよ。もう過ぎてしまったことだから。君が元気ならそれで。」 “ありがとう”と、か細く答えた彼女を、抱き締めるだけの冷たさも、愛の温もりもその時にはなかった。 そんな曖昧さを掻き消すように、傘を押し戻して雪の中に身を投げた彼女は、妖精のようだった。 彼女の肩や髪に振り落ちる雪が、彼女を包む込み、僕の心の空虚を埋めるほど美しかった。 あどけなく笑いながら、雪に向かって手を差し出す彼女は、遠い日に見た姿だった。 僕はその姿を茫然と見つめながら、彼女の上に降る雪の白さと、 彼女の肌の白さや潔癖さに、涙が出そうだった。 音もなく彼女を包む雪は、彼女を覆い、それはまるで純白のウェディングドレスのように美しい光景だった。 その隣に立つことの出来ない虚しさでさえも、真っ白な雪は包み込んでくれるようだった。 いつかこの僕の想いや、彼女の切なさも溶けてなくなってしまえるのではないかと思うほどに…。 「雪に足元を掬われない内に戻ろう。」 「そうね。楽しかったわ。ありがとう。」 僕はただ頷いた。この時も、僕はまだ迷っていた。 彼女をここで抱き締めなくても良いのかと。 深い深呼吸を一度吐き出して、僕はまた傘を彼女の上に傾けて歩き出した。 僕は歩きながら思った。 あの切ない雪の日が、今日のこの美しさの中でヴィジョンを変えたことを。 悲しさの残る想い出は、どこか淡く霞み、この今日の日が鮮やかに色付けされたのだ。 そう思えたことだけで幸せだった。 たとえ、彼女を掻き抱くことがなかったとしても。 雪で冷えた身体を温めることもなく、彼女は早々に身支度を整え玄関先に立った。 もう少しゆっくりしていけば…。という僕の言葉を遮って、一礼に頭を下げた。 「今日は急に御免なさい。でも、昔のようで楽しかったわ。お元気で。」 「いや、いいんだ。楽しかったよ、僕も。君こそ、元気で。」 「えぇ。それじゃぁ、また。」 「あぁ。また今度ゆっくり。あの人と…。」 僕は一つだけ、偽りを告げた。 それを彼女も知っていて頷いたのだろう。 もう一度彼女は頭を下げた。 そうして、二度と振り返ることはせず、ただ真っ直ぐに歩いて行った。 昔のあの日も、今も、僕は彼女の背を追いかけることはなかった。 軋みそうな重い玄関扉を閉めて、僕は深く瞳を閉じた後、今も降り続く雪を見つめていた。 それは彼女の訪問同様、突然の出来事だった。 彼女が訪れてから数日も経たない内に、訃報の知らせが舞い込んだ。 まさか。というよりは、どことなく了解していたような気分だった。 どうやら一年ほど病んだ後のことだったらしい。 あの時感じた儚さは、そういうことだったのか。と僕は一人納得していた。 そうして、「御挨拶」の意味を知った気がした…。 「…なるほど。だから御挨拶なのか……。」 あの日、何も告げることなく行ってしまったことへの大きな後悔を、きっと彼女も抱いていたのだろう。 それを無言の中で責めたことを、僕は懺悔したくなった。 最期には、一言だけ告げたかった。そんな風に思えた。 そう思うと、何もかもが急な訪問とつじつまが合った。 自分の死期を悟り始めた彼女が、誰にも告げずに此処にやってきたことも。 そうして、決して僕への愛を囁かなかったことも…。 全てを理解した僕は、とめどなく泣いた。 けれど、抱き締めなかったことを後悔することはなかった。 外は時雨。 彼女の訪問以来、すっきりと晴れることはない。 僕は傘を持ち、外に出た。 誰の涙なのだろうか、この雨は……。 そんなことを思いながら、彼女と話した道を歩いた。 彼女が無邪気に、雪に向かって手を広げた辺りに、見知った赤い靴が片方だけ落ちていた。 それは彼女のハイヒールに良く似ていた。 僕はある種の恐ろしさよりも、胸の奥から温かさが湧くようだった。 「そうか。帰ってきたのか…。」 「おかえり。」 僕は、その赤い靴を大切に抱き締めて、傘を捨て家路へと向かった。 あの日、彼女にそうすることが出来なかった代わりにと、一生懸命に靴を抱き締めて……。


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