「哀愁のバラード」







『Looking back, I have this to regret that too often when I loved did no say so』
(振り返ると、後悔する事がある。愛していたのに、そう言わなかった事があった。)
 By デビット・グレイソン

















組んだ足の痺れにも気付かないほど、時間は流れていた。
触れられないほど熱かったカップも、喉を潤す事もなく冷めてしまった。
開け放たれたバルコニーは、無造作に揺れるカーテンがサラサラと空を撫でる。
自分の趣味とは違うレースのカーテンが、この屋敷に居た夢のような女性を匂わせる。
気配も、存在さえも無いというのに、どこからか香るパフュームが悲しみに突き落とすように鼻腔をくすぐる。
それなのに、いつまでも優しい香りに包まれて、瞑想にも近い時間を過ごしていたい。
うららかな午後の日差しは、心をかすめながら新しい生を紡ぐ。



―――――愛よ、俺はどうすれば自由になれる?―――――



答えてくれ!と叫びたい衝動を堪え、冷め切った紅茶を一口流し込む。
ヒヤリとする感覚が、怒り震えそうな想いを鎮静する。
深く瞳を閉じると、躍動する陽の光が容赦なく瞼の中で燦爛し、いっそこのまま永遠に閉じてしまいたい瞳を、
また抉じ開けようとするかのように存在を主張する。
そしてまた、熱を持つ己の身体と、この無意味な涙で瞳を開けてしまうのだ・・・・。



―――――愛よ、何故、永遠に俺を殺してくれないのだ?―――――



要らない。
今も、未来も、この温もりでさえも。
戻れないのなら、このまま永遠の死を手に入れていたい。
このまま後悔に押し潰されてゆくのなら、潔く散っていた方がいい。

終われない。
逡巡しても戻り、また深く抉るように鋭い痛みを残していく。





















「マスター、イイ人雇ったのかい?」
「何の事ですか?」
主人は、大きな疑問符をつけて、客に問うた。
「人が悪いよ。ほら、あそこに居るピアノ弾き。新しく雇ったんだろ?イイ男じゃないか。」
客がそう言って視線を投げたその「男」は、悲しいバラードを奏でる。
「なかなか若い、色男じゃないか。これはこの時期にイイ餌じゃないのかい?」
客は不躾な言葉と、遠慮のない好奇の視線でそのピアノ弾きを見つめた。
確かに地下の小さなバーカウンターに、歳の若い見目の美しい男が居るのは、誰でも興味を引く。
そう思ったものの、あの美しさを世間の瞳で汚したくはない、と強く想った。


「いえ。あれはお客様でございます。毎年この時季にやって来られる方です。」
「なんだ、客だったのか。勿体無い・・」
どこまでも遠慮のない言葉に、少々の苛立ちを感じたが顔に出すわけにもいかず、グラスを取り出す。
「一杯、ご馳走しましょう」
早く汚れた視線を、魅惑の液体に戻すようにと、私はその客に酒を勧めた。
「おっ、今日は気分が良いのかい?ん、あぁ、どーも。」強めの酒を、勢い良く流し込んだ。
味を確かめる前に、飲み干されてしまったカクテルグラスは、小さなチェリーだけを残す。
客の心は、どうやら酒に酔っても、あのピアノ弾きが気になるらしい。
意外にも、真剣な眼差しで見詰める客は、どことなくバー慣れをした男というか、好色の気配がした。

「もう一杯いかが?」
横から割って入って来た女は、ボルドーのドレスを纏った色女であった。
「いただこうか」と、視線の中で笑んだ男は、高めのカクテルチェアーを引いた。
言葉ではなく、美しく施された唇が答えた。
「今日のBGMは、シックな趣ね」と女は告げながら、その隣の男のようにピアノ弾きを見詰めた。
「だろう?あの男、客らしい。イイ曲を弾くのに、勿体無いだろう?」
「あら、お雇いさんじゃなかったの、それは残念な事をしたわ」
「おいおい、それはないだろ」
笑い出した女に、男は苦笑する。
「でも、そこが良いのかもなぁ。毎年この時季に来るんだろ、マスター?」
少し口を滑らせてしまったかと、内心で呟いたがもう遅い。
「えぇ、まぁ」と濁して、男には「レディーキラー」女には「サイレンとナイト」を出して、
彼らの元からは去った。























数年前の、雪の降る前頃。
彼は女性とやって来た。
慣れないバーで、実は歳も足りない初々しい二人は、今日のこの特別な日を、
特別な事をして祝いたいのだと言っていた。
彼は慣れない酒を、少し流し込みながら、その女性を宝物のように見つめていた。
女性が語る話を、微笑みながら耳を傾けていた。
数十年こうした酒の席にいるが、あの時初めて、本当の酒の飲み方を知ったようか感覚になった。
煽るだけの酒や、沈黙を楽しめない酒、駆け引きの酒・・・・。
そういうものばかりを、長年見ていたせいか、楽しむ酒を忘れてしまっていた。
あの時、時間を忘れて話し込んだ事に随分と恐縮して、片付けをしていってくれた事も、
この店には初めての経験であった。
あの日、彼は隅にあるグランドピアノを指差して、弾いても構わないかと問い、調律の悪いピアノを弾き始めた。
あの時は、軽快なワルツや、温かみのある曲を弾いていた。
その全てが、彼女の存在のようで、私は心の底からくる安心感に浸っていた。
聖夜の少し前の日。
自分の誕生日だと言った彼は、早く雪を見たいともらしていたように思う。



あれから、毎年同じ日に彼は現れ、ピアノを弾いてゆく。
次の年。聖夜に結婚するんだと、美しいオーラと微笑みを連れてやって彼らは、
この薄暗い店までも光で埋めてしまいそうなほど、幸せを感じているようだった。
全ては順調に、幸せに進んで行っているのだと、ずっと想っていた。
薄寒くなって来た頃、私は彼らに逢える喜びを期待しながら、彼の誕生日待ち望んでいた。


その年。
彼は閉店間際に一人でやって来て、「遅くに、すみません・・・」とだけ言ったまま、俯いてしまった。
何となく、私は察した。
今日の様子と、一人のわけに・・・・・・。
もう閉店だから…と温かい店内に案内した後、彼はずっと泣き続けた。
私は、向かいになったカウンターで黙っていた。
ヤケ酒など、彼には似合わない。そう思って酒は出さなかった。
また彼も、それを望んでいるような気がしたから。
随分と幼く感じた。その涙のせいではなく、その純真さのせいではなく・・・。
それから、数時間の沈黙の中で私は想った。
今日、この店を出てしまった後の、彼の行方を・・・。
今にも消え入りそうな心が、彼を幼く見せていた。
急に恐くなった私は、酒を勧める事で時間を延ばしてしまおうと考えた。

落ち着き始めた彼は、出された酒を断らなかった。幾分、飲めるようになった気がした。
「美味しいです……」と、その時でさえも、味わう酒に私は感銘を受けた。
「一つお願いしても良いですか・・・?」と言いながら振り向いた先には、あのピアノがあった。
「あれを弾かせて下さい。」言わなくても通じた。
私は、ただ頷くだけ、その日弾いた“哀愁のバラード”という曲に涙した。
「ありがとう」と呟いた彼は、曲に対して泣いたのか、この悲しみに対して泣いたのか、それを問う事はなかった。
何度か引き止めたが、彼は酔う事も酒を飲んでいないからと、店を出た。
何度も今日の事を喜び、そして詫びた。
私は目頭が弛む想いでいたのに、彼はどこか清々しい笑顔をしていた。
その時の笑顔が、妙に恐かった。その清々しさが、死への渇望のように感じていたから・・・。

「また来年いらっしゃい。あのピアノが待ってる。生憎、この店にピアノ弾きは居ないんだ」
その言葉に込められた想いは、交わした握手よりも強かった。
「はい、ありがとうございます」
今にも、空に翔け出してゆきそうな背中を、私はいつまでも見守り続けていた。
街のネオンライトよりも儚い存在を、私は見えなくなっても護っていた。
そうして祈っていた。
今日の終わりが、彼の終わりでないようにと…………………………………。

























「よっと。庭から、こんにちは。」
ちょっとおどけて、庭から入って来た紳士は、趣味の良い花を持ってやって来た。
「お久しぶりだね、どうだい様子は?」
言葉を選びながら、気を遣ってくれる優しさは昔から変わらない。
その優しさに、どれだけ甘えてしまっただろうか・・・。
「相変わらずです。マスターはいかがです?」
「こちらも相変わらず。無遠慮な客が多いさ」と遠くの海を見つめた。
「どうぞ、こんなことろでは何ですから…」
バルコニーの段差に手を貸し、バーの紳士は、今日はただの男になった。

「おや・・・」
お茶を淹れに行く途中、彼が何かを見つけたらしい。
「どうかされましたか?」
部屋越しに問い掛ける。男の一人身では、お茶を淹れるのにも一苦労だ。
「あぁ。ゆっくりしておくれ」
手際の悪い様子にも、苛立つ事はせず、ただ黙って窓の外を見ているようだった。
部屋のわりに大きい窓は、この季節、視界いっぱいに落葉してゆく姿が映る。
「お待たせしてしまって…来ると分かっていながら、申し訳ないです…」
準備しておけば良かったと、今更になって思う。
「いやいや。それより、ピアノを買ったのか?」
きっと聞かれるだろうと思っていた。また、それを聞かれる事を望んでもいた。
「いえ。ここに来る時に置いてきたものです。もう、弾ける気がするんです。」
「そうか…。良かったら、」

言いかけた言葉を遮って、僕は立ち上がりピアノの蓋を開けた。
「一曲弾きましょうか?どうぞ、何でも」
本当は、どうしようもないほど緊張と不安を抱えていた。
それでもこの男の前でなら、いつもの自分のままで弾けるような気がした。
「私はピアノ曲には詳しくない。君が今、弾きたい、弾けると思う曲を頂くよ」
「頂く・・曲をですか?」
「そうさ。君の渾身の一曲を、この心で買うのさ」
「あなたらしい。では、哀愁のバラードを。あの時とは違う、この曲を、あなたに……」



弾き始めた僕は、一人分の拍手で目覚めたような、そんな感覚になった。
弾いている間、記憶が飛んでいるわけでもなく、とても気持ちが良かった。
哀愁の中には、小さな灯しがあるように感じた。
後悔で埋められたバラードでは、輝く事のない部分が、今日という日に光を増す。
破顔した彼は、紅茶を一口飲んで礼儀良く置いて、「じゃぁ、そろそろおいとましよう」と言って、
席を立った。
「あ、もうですか。ゆっくりして行かれたらよろしいのに・・・」
急に淋しさが襲う。彼を引き止める理由が見つからないから・・・・。
「今日は洗練した曲を聴かせてもらったよ、ありがとう。」
「いえ、とんでもない…。」歯切れが悪い事に気付き、何か言い訳をしようと考えた時、
バルコニーの下に降りた紳士は、忘れ去られた花を手渡し、ニッコリと笑ってこう言った。

「明日、4時に。」

「4時に・・なんでしょうか?」
何か用を頼まれたかと、この短い会話の中を辿った。
「…生憎、ウチには哀愁を弾きこなせるピアニストは居ないんだよ。どうだい、来ないか?」
「あ・・・」


















ある年から、そのバーには言葉こそ少ないが、笑顔の綺麗なピアノ弾きが雇われた。
そして、一年に一度だけ、決まった曲を弾くのだと有名になった。
運良くその曲を聴いた客は、その年の聖夜、美しい雪と、美しい愛を感じられるというジンクスまで出来たそうだ。
ある年の良く雪の降るその日。
男は雇われて初めて、ピアノを弾きながら顔を上げた。
酒も飲まずに、自分のピアノに耳を傾けるその女性に、彼は新しい曲を書いた。









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