「海中の吹雪〜Marine snow〜」 僕がこの波の流れに溶け込む頃は、君の上には雪が舞い降りる頃だろう・・・・。 粉雪が豪雪に変わり、視界を埋めるだろう。 そう…君の涙さえも凍りつかせるように…。 振り返らず零れる涙が、凍てついた涙を溶かし、固め…繰り返しながら季節は巡るだろう。 ほら、みてごらん? 君の空を・・・・。 聞こえないか? 世界の声や自然の声に混じりながら。 終息の鐘の音が、僕には心地好く聞こえるよ、ほら…ほらね……。 あてもなく、着の身着のまま僕たちは歩いた。 真っ青に広がっていた空は、心が躍るほど美しくて偉大なものに見えた。 静止しない空の雄大な景観。 見上げてばかりいる僕には、見下ろした心地は分からなかったけれど、僕は急に悲しくなった。 見上げることの出来る僕は、上向いて涙を止めることが出来る。太陽を見て笑うことも出来る。 けれど、空はただ見下ろすだけで拭うことも出来ず、ただ流し続けるだけなのだとしたら、 雨が涙だ、という子供だましな話もすんなりと納得出来てしまったからだ。 雲という心を突き抜けて降る雨の中に、どんな寂寥が混ざり合っているのだろうか。 その降り落ちる悲しみを、凌いでばかりいる僕には分からなかった…。 みんなそうなんだろう。 雨が降り、傘を差して…自分の上に届く嘆きの言葉を遮っている。 そう言う僕も、同じように雨を凌ぐのだろうと思うと、身体の何処かを隙間風が通り抜けた…。 どれぐらい歩いただろう。 僕たちは言葉を交わすこともなく、無心に歩き続ける有志で、旅人のようだった。 コツコツと、規則正しいヒールの音だけが辺りに響いていた。 僕たちは、海までやってきた。 静かな冬の海は、怖いぐらいしんと静まり返っていて、どこか神聖な場所に思えた。 真っ青だった空は、紫がたなびき蜜柑色の薄い雲が流れ、もうすぐ群青色に変わるだろう。 「少し寒いね…。」 彼女が呟いて、僕は黙って彼女の手を強く握り締めた。 潮騒の音が僕と彼女の間には流れ、時間を忘れさせて安心を与えてくれる・・・。 「いい音楽だわ、ほらあの波打ち際なんて特に。」 微笑った彼女は、ほら。と指差して僕を見つめた。 僕は視線を指先の向こうに移して、白波を僅かに立てる波打ち際を眺めた。 不規則に打ち寄せる波が、まるで音階のようにメロディーとして聴こえた。 彼女にはどんな曲に思えたのだろうかと、僕は少し恐かった…。 切ないでもない、悲しいでもない、もっと複雑なメロディーに、言葉などないから…と。 「もう少し近くに行ってみようか。」 僕はそう言って、一度軽く彼女の手を握り合図して歩き出した。 返事の代わりに手を握り返し、僕の歩調と合わせて歩き出した彼女の横顔は綺麗だった。 ふとした瞬間。 触れた微かな指先を掴まえて、君が望むなら強く抱き締めたかった。 何時の日からか、僕を試すようになった夜の帳や、星の瞬きを見つめながらいつも思っていた。 どんなに近い距離に居る君も、いつかはどうしようもないほど遠い存在になるのではないかと…。 いや、それは僕の方かもしれない…。 だからなのかもしれない。この想いの空白を埋めるように、彼女が愛しかった。 泣きたいほど愛しい君は、ただ恋人であり…だからこそ奪えずにいた。 繋がっているはずの手の指先だけが、この波打ち際の冷たさに同化していた。 「波って不思議ね。同じ動作を繰り返しているだけなのに、こんなに……。」 「こんなに…?」 言葉にされなかった語尾。その後に続くはずだった想いを、僕は感じ取ることが出来ずに不安になった。 聞き返しても、彼女は薄く笑うだけで波と戯れている。 「ねぇ、海の生き物たちは陸に憧れたりはしないのかしら?」不思議なことを彼女が言い出した。 「海の生き物?魚やイルカやサメとか?」 「そう。すべての海の生き物よ。だって人間は海にも行きたがる。陸でも生活をしているでしょう。 ほら、テレビや新聞にあるじゃない?クジラが陸に上がってしまって苦労して海に返すことって。」 「あぁ、たまにあるね。」 「あれは、陸に上がりたがっている。なんて思うのはオカシイかしらね?」 “そうだったら面白いのに” とフフフ…と笑った彼女の悪戯気な笑みと言葉が、何だかとてもこそばゆかった。 こんな彼女だから、僕は時々捕まえたくなるのだと思って笑った。 それと同時に、胸に鈍痛が走った。大きな不安の塊のような痛みだった。 掴み所のない自由な彼女を、この時確実に遠い存在に思えた僕は、悲しいほど解ってしまったのだ。 この愛しさの行方や、僕の灯火の小さな揺らめきの儚さを・・・・。 空は知らぬ間に藍色へと変わり、もうすぐ濃い藍色となり群青、限りなく黒に近い蒼になろうとしていた。 白波を立てていた波が、どんどんと青黒くなってゆく。 漆黒の闇に相応しく、冴え冴えとした無機の海と化してゆく。 彼女がしゃがみ込んで、砂浜の砂を指の間からサラサラと零した。 滑り落ちる砂が、大きな大地の一部として同化してしまう一瞬が、僕はいたく身につまされる想いがした。 小さな一粒一粒が、大きな大地や海原として混ざり合ってゆくことの自然さが痛かった。 「ねぇ、知ってるかい? この海の中にある数千、数億のプランクトンの死骸が深海に沈んでいくさまが、 雪のように見えることから、マリン・スノーと呼ばれていることを。」 「へぇ〜そうなの。ロマンチックね。マリン・スノー。 …綺麗だけど、涙が出るほど切ない……。」 「…うん。悲しい…。」 この時二人は悟ったのだ。 僕が何を言いたくて、彼女が何を返したかったのかを…。 僕たちも、そのプランクトンの死骸の如く、世界の中に溶け込むように、 自然がどこまでも慈しみ、僕らを還そうとするのだろう。 僕の命の灯火も、この海の流れのように不規則に漂い、その然るべき摂理に従い、行く末がある。 その逆らえないものへの憤りと、それ以上の悲しみの中で、美しいマリン・スノーに姿を変える生命は、 なんて美しいのだろうかと、僕は一人涙をのんだ。 押し戻され、引き戻され、その後に深海に沈んでゆく。 人生の荒波のように、強弱を付けて揺られた後にある、深海への導き。 最後の最期に見せる美しい深海の吹雪…。 僕の終焉はあの小さきプランクトンのように、勇ましく美しい躍動であるだろうか…。 僕はもう黒く、岸も沖も区別の付きにくくなった海を見つめて想っていた。 「ねぇ、僕を海に返してくれないか? 君が言ったように陸に憧れる生き物があるとするならば、 僕は生まれ墜ちる太古の昔住んでいたはずの、海に還りたい。」 「…マリン・スノーになるのね…。」 僕は頷き笑った。 「僕がこの海の流れに溶け込み、海を輝かせる一粒のプランクトンになる頃には、 君の肩にも美しい雪が降り落ちるだろう。 この波打ち際で佇みながら涙をこぼす君に、僕はただ白波と君の瞳に映る マリン・スノーとなり、逢いにゆくよ。」 僕の言葉に何度か頷きながら、彼女はいくつも涙雫を落として、唇を震わせた。 僕たちは海辺で抱き合いながら、接吻を交わした。 僕たちの接吻には、いつも何かが邪魔をしている気がした。 いつかマリン・スノーのように粉雪となり逝くことに痛みを感じて、腕の中の小さな小さな存在を、 強く強く確かめるように抱き締めた。 僕たちは凍えるほど寒い海辺で、互いの触れる温もりだけを愛しさに、心ごと奪い合った。 僕を試していた夜や星たちは皆、もうこの僕の想いを試そうとはしなかった。 彼女の冷たくなる指先を温めながら、『凍えるのなら僕独りだけでいい』と、 柔らかな髪を撫で僅かな隙間を埋めるように引き寄せた。 冷たい頬に流れる、温かい涙が僕の服に丸いシミをつくる度に 僕の心は解かされ、雫が優しく染み込んでいった。 僕の世界をふんわりと覆い尽くすような、可愛い泣き声。 寒い……と言っては泣いて、僕の服にシミを広げる。 僕は彼女の涙をようやく拭い、そうしてもう一度接吻た。 マリン・スノーが、月光の中でキラキラと輝く夜の帳に、 寄り添う二人の影だけが静かに重なっていた。 「抱き締めたまま、さらってもいいんだよ。すぐに…。 微笑むだけの私を信じないで。 だけどもう、ぜんぜん追いつけないくらい遠くへ…行ってしまう気なんだね……。」 塩辛い接吻を潮風のせいにしながら、僕は力いっぱい彼女を抱き締めた。 「そうだよ……」 と震えながら・・・・・・。 「僕がこの波の流れに溶け込む頃は、君の上には雪が舞い降りる頃だろう・・・・。 粉雪が豪雪に変わり、視界を埋めるだろう。 そう…君の涙さえも凍りつかせるように…。 そうして、僕の存在さえも凍りつかせてしまえばいい・・・・」



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送