「春季春光」



春になると思い出す。
駆け抜けた大地。
行き過ぎる時間の中で、色褪せる事のない遠い記憶。
陽の中で戯れる姿は、今ではもう幻影のようでもある。
懐かしさの中に、1さじの寂しさを感じながらも、今を生きる。

優しさを増した陽と、穏やかになった風に励まされ、僕らは駆け回った。
あの時、二人が交わした会話よりも、二人が過ごした「あの」時間が、何よりも美しい日々。
まどろみの中にいるような、そんな心地好い想い出は、今でも僕を笑顔にさせてくれる。


君は覚えているか?
あの遠い日を。
あの美しい日を。


空気の香りが変わった。
それは、想い感じるもので、言葉に出来るものじゃない。
それでも、変わった。と言えるのは、もう何度もこの季節を待ち侘びているからさ。
君の大好きな花が色付き、清々しくもしとやかな香りを運んでくれる。
まるで、その場に麗人が佇んでいるかのように、そこは美しい情景。

思い出すんだ。
町を歩いているとどこかの家の庭先から、君の大好きな沈丁花の香りが漂ってくる。
そうすると、僕はいつもあの頃に戻っていく感覚を覚えるんだ。
美しい陽光の中で、君と走りぬけた家の近く。
まだ僕らは、自転車に乗る事も出来ないぐらい幼かったんだよ。

覚えてるか?
お気に入りの淡い赤のワンピースを着た君が、裸足で靴を履いたまま走ってた。
音がキレイだからと、七五三用の草履も、しょっちゅう履いて靴擦れを起こして泣いていたね。
その跡は、大きくなった今でもあったりするってのは、僕だけが知っている事。 君の無邪気さの名残だね。

僕たちは、とにかく一緒だった。
毎日飽く事無く、遊び回り、駆け回っていた。
ケガをするのは当たり前で、意地っ張りで、強気な君はいつも危ない遊びをしていたよ。
壁を登ったり、フェンスを越えたり、知りもしない暗い道を通ってみたり。
ヤンチャな子だったよ。
家の中で遊ぶよりも、外で元気に飛び跳ねてる方が好きだった。

泥んこ遊びも得意で、どの土が良いのだとか、こうしたら良いのだとか、とても詳しくて上手だった。
毎日砂をかけて、まん丸のお団子が出来た後は、どうしたか覚えていない。
僕は、車に乗せて砕けてしまって、それをずっと内緒にしたままだったっけな?
ホント、僕らは仲良しで、太陽の子供のようだったね。

そんな眩しいぐらい鮮やかな想い出が、あの花の香りで呼び覚まされる。
風の気紛れに漂う香りは、幼い日を丸め込んでしまったように、今でもあの時のまま。
規則正しく毎年咲くその姿は、忘れないように…と訴えかけるようにも思える。





浮き足立つ春の気配に、もう……僕は走り出す事は出来ない年齢となってしまった。
鼻をかすめる遠き美しい記憶が、呼んでいようと僕は現実という見えない切迫に刈られ、
昔のように春を心から謳う事が、出来なくなってしまった。
あぁ、咲いたのか。
という、たった一言で終わってしまうようになり、その頃には艶やかな桜が派手に僕を魅了する。
見せかけの誘惑に負けて、桜を愛でながら、もう忘れてしまったあの香りを手繰り寄せてはみても、
思い出す事は出来ない…。

忘れたくないんだ。
君と駆け抜けた日々。
あの美しい自然の賛美の中で、僕らが謡った歌を。
今はもう見る事も出来ない、眼差しと笑顔。
無邪気に芝生に寝転んで見た、空の蒼さ。
キラキラと輝いていた二人が、たった一つ共有し合う温かい思い出だから。
君という思い出が、どこまでも愛しい…。










昔話ばかり…するようになった。
春の気配がまだ、薄っすらとしか感じない陽の光を受けながら、笑顔で語る。
どうやっても感じる事はない、「あの」美しい香りは、まだ大半が固く蕾を閉じている。
彼が想いを馳せる、清々しい香りを放つ事は、まだない。
それでも感じるのだろう。

ずっと笑顔のままの彼は、どの記憶の中にも私を登場させてくれて、私が好きだという花を
一緒に愛でてくれる。
名前も知らなかった私に、その名を教えてくれたのも彼。
それから二人は、春を待ち侘びるようになった。
鮮やかに散りゆく桜よりも、密やかに咲き、散る沈丁花を愛した。
あの花が、春の訪れを真っ先に知らせてくれるような気がしていた。
彼にとって春は、躍動の日々だった。
絶えない笑顔は、どこにも悲愴などなく、一心に生を唱える輝きだった。
二人過ごした、夢に似た日々は、お互いの心の中で今も大切に温度を保ったままだ。


二人のすべてが、始まった春。


揺るぎない関係の中で、春は別れも連れて来る。
きっと、今目の前で話す貴方が、焦がれるあの花を見る事はないのだろう。
楽しそうに微笑う、貴方の横顔が妙に歪んで見えるのは、きっと涙なんかじゃない。
忘れない。
忘れようもない。
ただ無条件に、美しかった日々たちを。
今しばらく、彼に夢を与えてほしい・・・。
一枚の花びらでもいい。
あの香りを運んできて・・・。
あの笑顔を曇らせないでほしい。


「きっと、明日咲くよ。楽しみにしていてごらん。」


蒼い空を見つめ、振り返った後、ゆっくりと微笑んだ君は瞳を閉じた。
陽に照らされた頬は、ピンク色をしていた。



二人の春が始まり、終えた・・・。
頬に流れた涙を、風がかすめ、ひんやりと熱を奪っていった。
悲しみが、風と一緒に流されて、残った笑顔でただ明日を待った。

「楽しみにしていてごらん。」

その言葉を確かめる為に、ずっと空を眺めていた…。




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