「花嵐」
豪華な造りの家。
不自由のない生活。
欲しいものが、文字通りいつでも手に入り、絶えない欲望を満たす。
着飾る外観。
廃れる内面。
それに気付きながらも、眼を逸らして・・・。
何処か、いや確実に心は満足していないと解っていながらも、その栄光の生活を捨てられない。
縋るものが、ここにはなくて。
降り注ぐ燦燦とした陽の光も、降りしきる雨の音も、この厳かな屋敷の中では、
遠く微かなものでしかない。
護られる為に、隔離された安全を、本当に安全と呼べるだろうか。
手に出来ない自由など、手に余る時間など、何の意味も成さない。
これだけの贅の極みに、どんな不満があるのかと眉を顰める貴方・・・。
解りませんか?
私が何を嘆いているのかを・・・・。
その汚れた瞳には、映りはしないだろうか。
そんなはずはないだろうに・・・・。
出逢った頃の貴方の瞳は、誰よりも澄んだ色をしていた。
だからこそ、その手を取った。
限りない愛情は、いつしか嫉妬に変わった。
ひととき誰かに向けられる、「ただの」笑顔さえ、奪ってしまいたいと思うほどに・・・。
束縛という、この城の壁ような軟禁。
悲しかったのは、その状態ではなくて、変わってしまった貴方。
苦しかったのは、この状態に変えてしまった、私の罪悪。
笑わなくなった貴方。
そして私。
今も変わらない、限りない愛情。
その価値の重さと貴重さ。
見なくなった、見えなくなったお互いの心。
それでも、離れる事を一度も考えない二人は、まだ温もりを求めているのだろうか。
履き違えたわけじゃなく、走り過ぎた想いが、少し負担になっただけ。
その強ささえも、幸せだと感じていた時だってあったのに。
私は怖かったのかもしれない。
その強過ぎる想いが。
衰えを知らない欲望を、止める方法が見つからない。
いつか二人呑まれてしまうかもしれない流れが、無性に怖かった。
その恐れさえも、沸騰した欲望の中では、ただの煽りでしかなく・・・。
拘束より強い、心の枷が一層深く、心を抉ってゆく。
豪華な夢の城。
尽きない富。
消えない徳。
貴方の知っている幸せの形とは、こんなものでしかないのでしょうか?
昔、語ったじゃありませんか?
照れ笑いにも、真剣さを持って「身寄りのない子供達に何かをしてやりたい。
だから偉くなりたい。それは支配する為のものじゃない。
この己自身に力が欲しい・・。」
あの時の眩しい横顔を、私は今もずっと覚えています。
辛い時に、その光景を思い出して、支えとなってくれているのです。
あの時、云ったじゃないですか?
その夢を、二人で築いて行こうと。
一人では出来ないものでも、私という存在が在れば、可能に出来るのだと。
その言葉を私は信じ、それ以上に貴方を愛したのですよ?
それが今ではどうでしょう?
素晴らしい鉄壁の城。
人間(ひと)の欲望を満たす財力。
どんなものでさえも動かせる、支配力。
力というものを手に入れ、貴方は見失ってしまった。
本来あるべき、貴方という人を。
いえ。
貴方は負けてしまったのです。
その欲望という、悪魔よりも確かな悪に。
そして、貴方もこの現実に満足しているわけじゃない。
何よりも雄弁なその瞳に、色がないのが証拠です。
どうか、戻って来て下さい・・・・・。
いつからか、違ってしまった自分の想い。
その愛しさは変わらないのに、表現が変わってゆく。
自分でも恐怖に想う、走り出す欲望。
嫌悪していた嫉妬や焦りが、今では自分を苦しめている。
嗜虐心が芽生える。
それは一番向けたくはない女(ひと)へと、間違いようもなく走っていく。
それなのに、一向に責めをしない、愛しい女。
だから怒りに任せる事も、切り捨てる事も出来ない。
手放せてしまうほど、この想いは簡単ではないから。
逃げを打つ彼女を、きっと、苛んでしまうだろう。
恐れを抱いた瞳を、きっと、美しいと思うだろう。
これではいけない・・・。
これでは、彼女を本当の意味で壊してしまう。
本当は、一番好きな笑顔で居てほしい。
ずっと護っていこうと、心で誓っていたのに。
いとも容易く、その誓いを破り捨ててしまった。
でも、一つだけ変わらないのは、愛しさからくるものだという事。
たとえそれが、独りよがりであっても・・・。
独り想いに耽って、握り締めた拳と、噛み締めた唇。
どちらも血を見るほどでもなくて・・・。
ふと、思う。
この姿を見せていれば良かったのだろうかと。
きっとこの弱さを見せていれば、彼女は笑って許してくれただろうと・・・。
この分厚い壁を割って、雨の音と風の音が聴こえる。
耳を打つ優しげで、儚げな調べ。
音に誘われ、見下ろした窓の外。
庭にうずくまる彼女の姿。
窓に手をついて、背筋に冷たい液体が流れるのを知覚した。
今にも消え入りそうな、そんな神聖な色を出す背中に、翼を視たような気がした。
強くなる雨足に、一気に現実に戻った。
とても秀麗とは言えない動きで、乱暴にドアを開け、階段を降りた。
飛び出した庭を前に、息を呑んだ。
それは昔と変わりない、「いつも」の彼女だったから。
失われない、内なる光。
雨に濡れて張り付く服が、煽るように美しかった。
見てはいけないものを、見たような想いだった。
神聖にして、侵し難い存在のような・・・。
一心に見つめていたのは、先頃咲いた花。
それは、この屋敷を建てた時に、自分が好きだからと言った花。
その花を、切ない瞳で見つめている。
それは、雨から守っているようで、この雨を共に楽しんでいるようでもあった。
水滴の粒を、瑞々しく弾く花弁に触れる指先。
そのまま花を愛でようとする彼女に、声をかける。
「触れてはいけない…。棘が刺さってしまうから…」
振り向いた瞳は、大きく見開かれ驚いていた。
少しの間、二人の間には沈黙が流れた。
その合間をずっと雨は降り続けた。
自分と同じように、濡れている事に気付いた彼女の言葉に、
込み上げる澄み切った愛を感じた。
「風邪をひかれてしまいますよ?」
小首を傾げ、自分の方がずっと弱く、ずっと長く、
この冷たい雨にさらされていたはずなのに、労わる事を忘れない。
控えめに笑った笑顔は、どこか不安気だった。
その色は、怯えのようにも感じた・・・。
「怖い?仕方のない事だね・・・」
自嘲的だったが、意外と心は穏やかだった。
このまま、別れを告げられても、素直に大人ぶって頷けそうな気がした。
視線を下の花に向けた彼女が口を開く。
その一瞬、その言葉塞いでしまいそうになるのを、ぐっと抑えて言葉を待った。
「…何時、以来ですかね?」
「・・・・???」
「この庭に来られたのは…。この花を愛でられたのは?」
・・・・・・・嗚呼・・・・・・・・
どこまでも責める事をしない。その強さが痛い・・・。
「以前、お好きだと?違いました?」
「いや。好きだよ。その香りも、色も。少し僕には純粋過ぎるけれど・・」
苦笑には、照れと自嘲が滲んでいた。
止む事なき雨は、まだ降り続いて、張り付く衣服は不快だというのに、
そんな事さえ思考に浮ばないほどに、この時、この空間は異彩を放っていた。
「何時、以来ですかね?」
同じ問い掛け。今度は何を・・・?
「何がだい?」
「笑ったのです。もう随分と、眉をしかめた貴方しか見ていませんよ?でも、解っています。
その下で、何時も苦しんでいた事も、悩み疲れる程に心を擦り減らしていた事も。」
その無邪気な愛情が、とてつもない深い愛情のようだった。
もちろん、それは彼女だからであって。
「…まるで千里眼のようだ。困った女性(ひと)だ…」
もう隠す必要はなかった。
柔らかな微笑が返って来る。
愚かな過ち。
どんなに高価な物質よりも、得難い幸せ。
そんな大切なものを、見失いそうになっていた。
一生分の後悔と自責に値するほどの、高貴な存在。
手にする事を恐れてしまって、縛り付ける事でしか愛せなかった自分。
そんな水面下のアヒルのような自分を、一歩先で何もかもを見通して待っている人。
待つ事を恐れない強さ。
突き放す勇気。
どれも、自分には欠けているもの。
その全てを補ってしまいそうな、包容力。
どうだろう・・・自分は返せているだろうか。
いや、彼女に欠けているものさえ見えない。
完璧である人間は居ない。
だから、まだ自分の瞳は、どこか濁っているのかもしれない。
これから、見つけていけばいい。
自分にしか出来ない、彼女の支えとなる部分を。
「去年も、一昨年も、そして今年も、綺麗に咲きましたよ。
綺麗だと想います?」
そんな当たり前の言葉を口にした事が、かえって不可解さを呼ぶ。
それでも、綺麗かと尋ねられて、応えないわけにもいかない。
「もちろん。いつか見た時と変わらず美しい・・」
そこには、大輪の…という言葉が相応しい笑顔があった。
「花が綺麗なのは、それを綺麗だと想う人がいるからです。
そう想わない人にとっては、きっと何でもないものですから。
今綺麗と言った貴方なら、昔と変わらないんですよ?」
やんわりと、だが的確に心のしこりを解きほぐしていく彼女の言葉に、雨とは違う温度の滴が流れた。
其れを知られる事が、いや、知られた事が、少し恥ずかしくも嬉しくもあった。
依然、弱まらない雨を思い出し、そっと近付いた肩は、随分と冷たかった。
「入ろう。」
ニッコリと微笑んだ彼女は、後ろの・・・・
そう、彼女で見えなかった後ろにある傘を出してきた。
「!!傘を持っていたんじゃないか!?」
驚きが、少々乱暴な口調を取らせた。
そんな姿に苦笑して、「いいんです」と告げた彼女は、相変わらずの微笑みで、
この雨でも美しく彩りを添える花に、傘を差した。
「まったく、君は・・・・」
絶句に近い呟きも、彼女のクスクスという眩しい笑顔の前では無意味だった。
「ありがとう・・・」
謝罪のような、感謝に首を傾げた彼女は、全て知っていると云わんばかりに、
手を引いて走り出した。
それは出逢った頃、公園で走り回っていた彼女を思い出させ、
自然と顔が綻んでいくのが分かった。
胸の一点に集まった高鳴りと、温かさが、汚れた心を洗い流していった。
花は咲いて愛でてこそ、美しい。
鳥は羽ばたいて大空を翔けてこそ、美しい。
彼女の笑顔もそうした自由の翼のようなものだろうか。
きらめく表情は、どんなに縛り付けても見られる事はないと、
今の僕なら解る。
「転ぶよ?」
声を上げて笑った僕に、「お帰りなさい!」と告げた彼女は、輝いていた。
その言葉は、本来の僕を思い出させ、穏やかな自分がすっと降りてきたようだった。
「ただいま」
不器用な笑顔は、それでも一番輝いていた。